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風の歌を聴け

風の歌を聴け (講談社文庫)風の歌を聴け (講談社文庫)
(1982/07)
村上 春樹

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風の歌を聴け」(感想
(著)村上 春樹

一九七〇年の夏、海辺の街に帰省した<僕>は、
友人の<鼠>とビールを飲み、
介抱した女の子と親しくなって、
退屈な時を送る。
<僕>の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。

『1973年のピンボール』を探している最中に
こちらの方が見つかったので再読。

この作品は時折前半の部分と
後半の特に37章(?)の部分を思い出したように
読み返すことがあります。

一行だけの章もあるので
パラグラフといった方がいいのかもしれません。

初読は17~18歳ぐらいの頃で
『ノルウェイの森』で懲りて(笑)
この著者の作品には手を出すまいと思っていたのですが

当時の現国の問題集の中で
7章の部分
無口な少年である“僕”が精神科医とカウンセリングを行う下り
を取り上げられていたのに興味を引かれて
読むことになりました。

(余談ですが、その問題集は定番の
夏目漱石、森鴎外だけでなく
村上龍の『コインロッカーベイビーズ』や
沢木耕太郎の『人の砂漠』
本多勝一などが取り上げられていて
周囲に本を読む人間が少なく
図書館の司書の先生ぐらいしか
本を薦めてくれる人がいなかった

地方の高校生には
とても参考になり
読書の幅を広げてくれました。

そういった意味では、現国教育も
意味のあるものだなと思います。

さて、内容ですが・・・

謎の作品です。

印象的な文章は随所にみられますが
内容については正直・・・?
まずは冒頭。

 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

 僕に書くことのできる領域は限られたものだったからだ。
例えば、象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。
そういうことだ。

 結局のところ、自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。

うーん。
わかったような、わからないような。
タイトルも含め、格好は良いけれども・・・
どうしても、“軽い”印象が拭えない。

この“軽さ”が当時の文学にとって
インパクトを与えた事は
想像には難くないのですが。

個人的には
象について書けるのであれば、象について書けばいいじゃん
とか思ってしまうのです。

 ハートフィールドが良い文章についてこんな風に書いている。
「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することだ
必要なものは感性ではなく、ものさしだ」
  僕がものさしを片手に恐る恐るまわりを眺めはじめたのは確かケネディー大統領の死んだ年で
、それからもう15年にもなる。
(中略)
15年の間僕はありとあらゆるものを放りだし、そのかわりに殆んど何にも身に付けなかった。

ハートフィールドなる謎の作家の登場。
ロバート・E・ハワードやハワード・P・ラヴクラフト
エドガー・R・バローズなんかを思い起こさせますが
(ネット等で調べてみると、どうやら、架空の作家のようですが)

“僕”もしくは著者の小説に対する考えを代弁させる存在なのかもしれません。

 僕はノートのまん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、
右側に失ったものを書いた。
(中略)
僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。
小説でも文学でもなければ、芸術でもない。
まん中に線が1本だけ引かれた一冊のノートだ。
教訓なら少しはあるかもしれない。

 もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。
真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。
(中略)
 夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、
それだけの文章しか書くことはできない。

 そして、それが僕だ。(1章)

ギリシャ人の書いたもの
そういえば、ギリシャ悲劇の「機械仕掛けの神」
(デウス・エクス・マキナ)を語る下りが
『ノルウェイの森』にもありましたね。

ケネディー大統領の死んだ年も(1963年)再三登場しますが
これからから推測すると
文章を書き出して15年(1978年)が物語が書かれた時点と考えられます。

そして、唐突に“僕”と読者の心理的距離を縮める為に
用意されたような文章で締められる。

この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終わる。(2章)

この話が既に回想譚であることと18日間の規定された物語であることを提示。

3章で友人<鼠>とバーテンのジェイ、「ジェイズ・バー」の登場。
ビールとピーナッツ、そして猿の版画。
「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」

4章で<鼠>との出会い。

5章で本を読まない<鼠>との会話。
「何故本なんて読む?」
「何故ビールなんて飲む?」

「生きている作家になんてなんの価値もないよ。」
「何故?」
「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」

『ノルウェイの森』での永沢さん(先輩)が
時の洗礼を受けていない本を読まない理由として挙げていた事と
大意としては同じなのか?

<鼠>の小説に対する考え方
「(中略)何故そんなことまで小説に書く?他に書くべきこともあるだろう?」

「俺ならもっと全然違った小説を書くね。」

<鼠>が小説を書きはじめるきっかけ(?)

6章 鼠の小説について
鼠の小説には優れた点が二つある。
まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。
放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。

『ノルウェイの森』とは対極なのか?
あるいは、放って置いても人は(自殺)をするし、
(生きている人間は)女と寝るという意味?

7章 前述の精神科医との会話。
文明とは伝達である、と彼は言った。
もし、何かを表現できないなら、それは存在しないと同じだ。
いいかい、ゼロだ。

医者の言ったことは正しい。
文明とは伝達である。
表現し、伝達すべきこと失くなった時、文明は終わる。
パチン・・・・・・・OFF。

8~9章 左手の指が4本しかない彼女の登場。

10章 「ジェイズ・バー」年上の女との会話。

11章 ラジオN・E・B DJの登場。

12~14章 DJとの会話「カリフォルニア・ガールズ」LPを借りた女の子

15章 左手の指が4本しかない彼女との再会。LPを購入。

16章 「ジェイズ・バー」<鼠>が読書をしている。プレゼントとしてLPを渡す。

17章 「カリフォルニア・ガールズ」LPを借りた女の子を捜すが見つからない。

18章 左手の指が4本しかない彼女から電話。<鼠>モリエールを読んでいる。

19章 <僕> 21歳になった。これまで三人の女の子と寝た。
最初の女の子。高校のクラスメート。17歳。 
眠れぬ夜に、僕は時々彼女のことを思い出す。それだけだ。

二人目の相手。地下鉄の新宿駅であったヒッピーの女の子。16歳。
ノートの切れ端に「嫌な奴」と記し、姿を消す。

三人目の相手。大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生。
翌年の春休みにテニスコートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。
新学期が始まるまで気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。

20章 「ジェイズ・バー」で左手の指が4本しかない彼女との会話。
     お父さんは五年前に脳腫瘍で死んだ。     
     双子の妹がいる。
     八つの時に左指を失う。
     <僕>帰省中。東京の大学に通い生物学を専攻。

21章 三人目のガールフレンドが死んだ半月後(4月~5月)
    ミシュレ「魔女」を読んでいた。
    私の正義はあまりにあまねきため

22章 左手の指が4本しかない彼女の家に呼ばれる。
    明日から1週間ほど旅行に行くと告げられる。
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