終わってしまった。
終わったよ・・・・
凶羅は、やはり、登場しなかったけども・・・
(大僧正・和羅とは違い、バケモノを倒すことに力を注いでいた。
原作では、最終決戦の結界の弱い部分を、秘かに守り、誰にも、気がつかれずに、その役目を終える)


九印もラストをああするしかなかったのだろうけども
(原作の最期では、とらとは違う別れが描かれます)


九印は、その存在意義の為にキリオを守り、死んでいきます。
彼がいみじくもよんだ“トモダチ”こと“とら”とは違い、(内面の変化をそこまで見せずに)去って行きます。
(だからこそ、ピエロの文字が突き刺さります)
・・・でも、本当に素晴らしかった。
ラストでの、うしおの倉を見てからの、表情、間。
一歩前に進むシーンは
これは原作以上だと、思います。
白面の者も良かったなぁ。
原作を阿呆ほど読んでいても、白面がなぜあのキャストだったのか。
声として聴いて、より白面の切なさが伝わって来ました。

「
誰か・・・名付けよ、我が名を・・・
断末魔の叫びからでも、哀惜の慟哭からでもなく、静かなる言葉で・・・
誰か、我が名を呼んでくれ・・・
我が名は白面にあらじ
我が 呼ばれたき名は・・・」
そして、この最終決戦の大きなキーマンでもある
流兄ちゃん。
流の最期のシーンで、とらの顔は風でうつりません。

このあと飛び上がり、ガラスが流に降り注ぐのですが
よく、言われることですが、やはりこれは涙のメタファーだと思います。
後述する、涙を流せない、とらの涙にもみえます。
これが、決戦の大きな転換点の一つになります。
サンデー読んでいた時、「うわぁー!!」って声が出ましたもんね。

この胸の穴をふさぐのが・・・。良いシーンばっかりだな!!

うしおととらを完全に引き裂く為に用意されたもっとも巧妙な“策”。
ただ、流の存在は、実は白面の者の本質を更に映し出すものとなります。
とらが言ったように。

流は何故、白面につかざるを得なかったのか。
(もちろん、最初にある程度は明かされますが)


藤田作品に往々にして登場する 心の中に空虚な風が吹いている人物です。
流対とらはある種のセラピーや解放とも取れます。

この時のとらの顔いいなぁ(笑)

「うるせえ、人間!!」
「ガキ一匹の目が怖くて仲間を裏切るよーな人間に、わしが負けるかよ。わしは…妖だぜ!」
「自分の力を自分で量れねえクソ人間らしいよなァ、ナガレ。
ちっぽけな人間の世界だけで何をつけあがってたんだよ」
天才でもなく、人間として死ぬことが出来た流。

白面の者もある意味、非常に似た構造があります。


前に載せた“我が名は白面にあらじ”と同じように。
産みの親ともいうべき(シャガクシャ)=とらから指摘を受けます。
ちなみに名前についても、この作品はこだわっています。
もちろんタイトルの『うしおととら』
良く言われるように、うしとら=丑寅=艮=鬼門(北東)を意味し
最初の旅は東京から北東にある北海道に向かうことになるという説もあるぐらいです。
(著者の藤田和日郎氏の故郷でもあるということも大きなウェイトを占めていると思いますが・・・)
そして、とらも“長飛丸”という名前から、現在の名前である「とら」に思い入れをもっています。
一鬼戦、

そして最後の戦いでも
「
わしは何か変わったのか・・・変わったような気もするし、変わらんような気もする・・・
ま、今はそんなこたどうでもいいぜ。
わしはとらだ!」
お気に入りですね(笑)
白面に対して言葉を口にすることしかできなかったあの場面
「
やったら殺すぞォ。絶対殺す、絶対だぞ!」
うしおの年齢相当の幼さや、口にすることしかできない絶望が感じさせられます。
それが
そして、冥界の門からその“陽の力”の持ち主たちが現れます(原作ではあと二人程あのシーンでは多いのですが)
そのあとのうしお。

明らかにうしおの精神状態が違います。
ここも。本当に好きだなぁ。
最終話でとらが、うしおにいうように“獣は涙を流さねえ”と口にします。

その代わり、うしおを食らうことにより、シャガクシャでも、字伏でもなく。
とらとして、そして、白面への憎しみからも解き放たれるのですが。
だからこそ、熱い涙を流せるうしおは、とらには、やはりなれないのでしょう。
獣の槍もなくなりますが
あの、刻まれた文字の通り、蒼月の胸中にあの二人の兄と妹が住んでいるのでしょう。
雲外鏡のおんじもちゃーんと出てくれて、嬉しい限りです。
多分、また追記しますが、本当に良いものをありがとうございました。