「
エレファント・マン」(
感想)
(監督)
デヴィット・リンチ(主演)
ジョン・ハート アンソニー・ホプキンズこの映画の存在は、知っていましたが
なんとか観ないで済まようと思っていました。
学生の頃、深夜映画でTV放送されていた時
見世物小屋で興行主に叩かれていたのを観てあまりの不快感に
チャンネルを変えてしまいました。
それが、正直、『ケンガイ 3巻』で口にされる台詞を聞いてみて、自分がどう感じるのか知りたかったからでした。
観始めの段階からまず、我慢を強いられます。
見世物小屋に詰めかける人々。
彼らの目は怖いもの見たさと興味で嫌な熱っぽさを帯びています。
アンソニー・ホプキンズ演じるトリーブス医師は見世物小屋で彼(ジョン・メリック)を見い出し
興行師・バイツから、彼の身柄を預ります。
てっきり、治療の為かと思っていたら、症例報告の為に大勢の医師の前で彼を見せます。
・・・なんだよ。やっていることは、結局、観客が変わっただけじゃねぇのかよ!!(怒)
ジョンを屋根裏の隔離病棟に入れ、様子をみる事になったのだが・・・
ジョンの知性は低いと考えられていたが、トリーブス医師と事前に練習していた
自己紹介や挨拶を終えたが
あくまで、練習の成果でしかないと感じた院長は
病院から出て行くように言います。
その時、閉まった扉の向こうで、ジョンは聖書の詩篇23を暗誦し
それに気がついたトリーブス医師と院長は
ジョンが知性と感性の持ち主であることに気がつきます。
“主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません”
まず、この一節で目頭が急に熱くなり、“
乏しいことがない”って・・・
同時に、彼を急に“人間”として認識し始めた自分に愕然としました。
おいおい。お前も結局変わらねぇじゃん
美と醜。知性・理解力の程度。結局、尺度が違うだけじゃないのか。トリーブス医師の家に行き、普通に夫人に接せられただけで涙を流すジョン。
「
ただ感激したんです
こんなに美しい女性に優しく接してもらった事がなくて」
(ちなみにこれが『ケンガイ』で重要な台詞として登場します)
家族の写真の下りや友人に対する言葉に、彼の今までの人生が垣間見えて
胸が苦しくなります。
院長の新聞への投稿により知られていくジョン。
それは社交界にも伝播していき
舞台女優のケンドール夫人も知ることとなり、彼の病室は一躍
社交界のトレンドの場所へと変わっていく。
ここも、どうなんでしょうね。
婦長が立腹して、トリーブス医師にくってかかるところも
気持ちはわかります。
時折、来て、お金持ちや上流階級の人たちがプレゼントを渡す。
日頃の彼の生活を助けてくれる看護師たち。
“親切”ってなんなんだろうか。
トリーブス医師が自分は興行主のバイツと変わらない人間なのではと悩む所も・・・
普段の自分であれば、偽善だろうが善は善。大切なのは自分の気持ちがどうではなく
相手がどう感じるかだ。と言いきっていたでしょうが・・・
良く判らなくなってきました。
登場人物の状況説明が少ない為、ボイラー技士?警備員??が
小金欲しさにジョンの部屋に侵入し見世物にするシーンの醜悪なこと。
自分も含め、人間なんか滅んじまえ。と久しぶりに思いました。
「
外道!きさまらこそ悪魔だ!(略)
これが!
これが!
おれが身をすててまもろうとした人間の正体か!
地獄へ落ちろ人間ども!」 『デビルマン』
「
シンイチ・・・・・・
『悪魔』というのを本で調べたが・・・・・・
いちばんそれに近い
生物は、やはり人間だと思うぞ・・・・・・」『寄生獣』
まぁ、同じミギーの台詞で「
人間が人間を卑下しても仕方ない」のですが
本当に、デビルマンに(観ている自分も含め)もう燃やされろ!!と思いました。
病院から連れ出されたジョンを以前と同じような仕打ちにあわせる興行師バイツ。
「俺の宝物」とか言っていたような割には・・・???
他のメンバーが彼を救いだすシーンには素直に心が温かくなりましたが
「おれたちのような人間には運が必要だ」 また涙腺が崩壊しそうになりますが
その後の、船から降りた後の子供や追いかける群衆に
再度、怒りを覚えつつも
「
I am a human being!」と叫ぶシーンと
トリーブス医師が再会した時にジョンを抱きしめるシーンで
胸が熱くなります。
(もう、本当に心の色んな部分が動く作品です)
観劇のシーンは微妙で、わざわざ、最後に舞台女優のケンドール夫人が
「今日の舞台はジョンに捧げる」とかいう意味のことを口にしますが
観衆が全てこちらを観て立ち上がる所も???
ジョン自身はどう感じたろうか?
ジョンがトリーブス医師に対して、しきりに「我が友」と呼んでいるのが
胸が痛くなります。
(トリーブス医師はそれに対しては答えていないような・・・)
観劇後、大聖堂を作り上げ、自らのサインをして、仰向けの姿勢で眠るジョン・・・。
彼の体ではそれはとても危険なことで、映画では意図的に
そうやったように終わっていきます。
DVD付属のインタビューからすると映画なりの脚色・時間配列の変更があり
親からも捨てられた訳でなく、生活の為に自分から見世物小屋に行って
興行師からは寛大に扱われたそうだったり
ケンドール夫人に亡くなった母親としての像を重ねていたとのこと。
虚と実。あい混じってどう判断していいかまだわかりません。
ただ、本当に、怒りや悲しみ、自分の見たくない姿も含めて
様々な感情を想起させる映画であったと思います。