キマイラ魔王変
![]() | キマイラ魔王変 (ソノラマ文庫―キマイラ・吼 (280)) (1984/07) 夢枕 獏 商品詳細を見る |
「キマイラ魔王変」(感想)
(著)夢枕 獏
8月31日。
明日から新学期が始まる。
だが夏が終わっても、西城学園には戻ってこない人間がいた。
その一人久鬼は、白蓮庵で花を活け、
鬼道館で立ち合いをおこなった。
集まった者は、みな久鬼が別れを告げに訪れたことを感じとっていたが
九十九は不安だった。
“何故、久鬼は小田原に来たのだ”。
その夜、深雪の家のある西海地通りに、久鬼の姿があった。
今年も『キマイラ魔王変』の日です。
もう、二十年ぐらい8月31日になるとこの本を読んでいます。
この魔王変は、キマイラシリーズの初期のピークだと思います。
あとがきでも、若かりし頃の著者が
気負いながらも語っている言葉。
(もともとは半村良氏の言葉のようなのですが)
“伝奇小説というのは、広がってゆく時が、
読者にとっても作者にとっても一番おもしろく、楽しいのではないか。
いろいろな、怪しげな人間やらなにやらが出てきて、
様々にからみあいながら、謎が謎を生んでゆく。
次にどうなるか見当がつかない――
そこにこそこのての物語の醍醐味があるのだと思う。”
この巻は、まさにその部分で
一章 邂逅編<八月二十八日>と
二章 群狼編<八月三十一日>と分かれ
大鳳吼、久鬼麗一。
龍王院弘、フリードリッヒ・ボック。
九十九三蔵、脇田涼子、岩村賢治。
亜室由魅、真壁雲斎 宇名月典善 斑孟。
阿久津、菊地、灰島。
魅力的な登場人物が各々邂逅し
新たな縁を生んでいく邂逅編。
別れの予感を多分に含みながらも
物語として、大きな転機を迎える群狼編で構成されています。
何度、読んでも、瑞々しいです。
おそらく、同じ、著者ですら、もはや書けない
文章のような気がします。
今日が八月三十一日。明日から二学期が始まる。
九十九にとっては、春から今日まで、あわただしく過ぎ去った夏であった。
特に、八月の一ヵ月間には、信じられぬほど様々なことが起こった。
“明日からまた西城学園が始まる――”
という雲斎の言葉を、九十九は、ひどく遠いもののように聴いた。
自分がまだ高校生であるということが信じられなかった。
九十九は、引き返えせぬ道に向かって、
すでに一歩を踏み出してしまった自分を知っている。
「高校くらいは、きちんと出ておくが良いぞ、九十九――」
ぼそりと雲斎が言った。
九十九の腹の底を見透かしたような、ふいの雲斎の言葉であった。
「はい」
(中略)
「おめえを見てるとよ、わしは不憫でならねえのさ。
おめえまでが、あの久鬼や大鳳に、急いでなることはあるまい。
今はわかるまいがよ、生涯に、もう二度とないのだぞ、
おめえの今の時期というのはよ。
人並みに楽しんでおけい、九十九。
おめえだけじゃねえ、
人は、誰でもやがては修羅の道へ足を踏み込んでゆかねばならぬ。
そうしたら、もうこの場所へは戻ってはこれぬ。
今のうちに、この場所をようく見て、
そのばかでかい身体で存分に味わっておけ――」
この真壁雲斎と九十九三蔵
(著者の別シリーズ『闇狩り師』主人公・九十九乱蔵の弟)
との心温まる師弟の会話や
その言葉を受けて、夏の海を見ながら様々な思いが去来するところに
何ともいえない味があります。
ひとつの季節が去りつつあり、もうひとつの季節がやってきつつあった。
少なくとも、小学生や中学生や高校生にとって、
八月三十一日以前に眺める海と、
九月一日以降に眺める海とが、同じ風景であるはずがなかった。
その前と、その後とに眺める樹や水や、光や色が同じであるはずがなかった。
その境目に、九十九は立っているのであった。
高校三年の八月三十一日――。
大学へゆくにしろ、ゆかぬにしろ、永遠に続くと信じていた長い休暇――
人生における黄金の日々が、ようやく終わったことを、
ふいに思い知らされるのが、その八月三十一日なのであった。
“修羅の道へ足を踏み入れたら、もうこの場所へは戻って来れぬ”
そう言った雲斎の言葉が、ほろりと、小石のように腹の中に落ちている。